北海道開拓の大きな柱は、➀屯田兵村と➁殖民区画事業です。今回は、➁の殖民区画事業についてまとめてみました。

19世紀のアメリカやカナダにおいて、原野開拓の基礎となった土地制度はタウンシップ制です。

そして、この制度を日本に紹介したのは、米国農務長官でありながら、黒田清隆の熱意に心を打たれて、明治4年(1871)に開拓使顧問として来日したホーレス・ケプロンという人物です。

ところで、北海道開拓において本場のタウンシップ制とよく似た制度が本格的に実施されるようになるのは、行政機構や土地調査、測量などの準備が整った明治20年代に入ってからです。

皆さんは北海道にある新十津川町をご存知ですか。ここは、殖民区画事業によって、明治23年(1890)に奈良県の十津川村の住民、600戸2489人が集団移住して開拓を始めたところです。

下のGoogleマップの写真を見ると分かるように、新十津川町には開拓のために区画された痕跡が見事に残っています。

道路で囲まれた部分は、300間×300間(中区画)です。メートルに換算すると545m×545です。

私が補助線を引いるように、この区画は6つの小区画に分けられています。小区画に1戸が入植することになっていたので、中区画には、6戸が入植したことになります。

➀ 小区画  中区画を6等分したもの   100間×150間(1戸)
➁ 中区画  殖民区画の基本となるもの  300間×300間(6戸)
➂ 大区画  中区画の9つ分       900間×900間(54戸)

★明治22年(1889)8月に奈良県の十津川村を襲った大水害を機に、そこの住民、600戸、2489人が石狩平野を開拓したのが、今日の新十津川町の起源です。

★新十津川町のホームページには、新十津川町の開拓の歴史についてはの記述があります。

★北海道開拓について調べているとき、岐阜市立女子短期大学の柳田良造先生が作成された『近代期における開拓と農村地域空間形成の研究』という資料をネットで見つけました。とても参考になります。

★国立国会図書館デジタルコレクションには『北海道北見国斜里郡殖民区画地図』が公開されており、知床半島の付け根にあたる斜里郡で行われた殖民区画の図面を見ることができます。

*Googleマップで見ると、斜里郡には、殖民区画事業の痕跡がよく残っています。

★最後に北海道とアメリカの1つのタウンシップの規模を比較してみたのが、下図です。