農地改革 ~ 農地の買収価格 ~
農地改革についてずっと疑問に思っていることがありました。それは、農地の買い上げ価格が、いくらぐらいだったのかということです。
以前投稿したブログでは、独立行政法人経済産業研究所「地改革の真相-忘れられた戦後経済復興の最大の功労者、和田博雄」を紹介しましたが、そこには買収価格は水田760円、畑450円であり、ゴム長靴1足の842円にも満たないという記述があります。ただ、面積については触れられていません。
そこで、近所の図書館で農地改革について調べていたところ、「佐賀市史・第五巻(現代編)」で詳しく記述をみつけました。以下はその要旨です。
▶ 農地改革を実施する機関として市町村に農地委員会が設けられ、その委員は10名を定員とした。地主層の代表3名、自作農の代表2名、小作農の代表5名で構成された。
▶ 全農家は、それぞれ所属階層ごとに投票によって委員を選出した。佐賀市では、この農地委員会の選挙は昭和21年12月23日に実施された。
▶ 地主が受けた買収価格は上田で1反当たり千円、平均750円であり、小作農への売り渡しも同じ価格で行われた。
*1反(たん)は約10アールに相当します。1アールが10m×10mですから、長方形で考えれば、10m×100mとなります。なお、10反が1町で、約1ヘクタール(100m×100m)です。
▶ 昭和22年当時のヤミ価格はおおむね1升163円といわれるから、この1反千円の農地価格はヤミ米6升にしかあたらない。
*あくまでネットで調べたことではありますが、昭和17年の1,400円が現在(H25)の約52万円に相当するという投稿がありましたので、千円がヤミ米6升にしか相当しないというのは、戦後のハイパーインフレの影響が大きかったと思われます。
▶ 佐賀市では第1回の買収は昭和22年3月31日に行われ、それから16回を重ねて昭和23年7月2日に全ての農地の買収が完了した。小作人への売り渡しもこれと並行して行われた。
◆ 他にも興味深いことが記されていましたので、紹介します。 *p307~
・明治以来、日本の農業を支配し政治体制の中軸をなしていた寄生地主制は、地主が小作農から生産物の5割前後を小作料(地代)として徴収する習慣であった。
・農地の賃借における地代は時代により種々な形態で徴収されるが、生産物で支払われる形態は封建社会にみられるものである。
・ところがわが国では戦前まで生産物で地代を徴収していたが、地方によってはこれを年貢米と呼んでいたのは、この形態が江戸(封建)時代の名残であることを示していた。
・しかし戦時中の食糧事情の窮迫は、自ら労働しないで生産物の約半分を徴収する地主の反社会的性格を浮き彫りにしたため、現物納を金納に改めさせられ、その金額も著しく低くすえ置かれた。
・わが国でも戦時中の経済社会において地主階級はその社会的生命をほとんど失っていたといってよい。
・これに追い討ちをかけるように、占領軍司令部は昭和20年12月9日「農地改革に関する覚書(農民解放指令)」をわが政府に与えて、早急にかつ徹底的に農地改革を行い、不耕作地主を否定してそれらの所有物を当該小作人に分譲せしめるよう指令した。
・この指令は極めて時宜にかなったものであったが、敗戦にもかかわらず帝国議会(旧憲法)において保守勢力が優勢であったため、この趣旨を骨抜きにした微温的な改革案を作成した。
・総司令部はこれを極めて遺憾とし、イギリス案を骨子とする第二次改革案を作成して日本政府に提示するにいたった。
・帝国議会はその意を受けて、農地調整法第二次改正及び自作農創設特別措置法を制定、昭和20年10月21日に公布され、農地改革に着手されたものである。
・改革の要点は、在村する地主に対しては1町歩までの農地の保有を認め、それを超過する所有地を、不在地主に対してはその所有地のすべてを政府が買収し、これを自作農として精進する見込みのある者(原則として当該小作地を耕作中の小作農)に売り渡すことであった。
・その場合の価格は法定地下を基準として政府が決定する。
・この措置の結果、若干の小作地が残存するが、その場合の耕作権の確立と小作料の低率金納化、及び耕作可能な林野の強制買収などを内容としていた。
◆ 最後に、不在地主について、父親から聞いた話を追加しておきます。意外と知らない人が多いので・・・
▶不在地主というと、田舎ではなく都市に住み、小作地には管理人を置いて小作料を徴収していたというイメージが強いと思います。
▶しかしながら戦後の農地改革において不在地主とされたのは、それだけではありません。
▶所有している農地に所在する市町村に住んでいな地主が含まれます。
▶つまり自分が住んでいる村以外、例えば隣村に農地を持っていてそれを小作に貸していた場合、その農地も買収の対象となりました。
▶この場合、面積がどんなに狭くても、不在地主という扱いになり、すべての農地が買収の対象となりました。
*買収額が安いため、これで財産の多くを失った人がかなりいたとのこと