紫雲丸事故から本州・四国連絡橋を考える

中国・四国地方の単元では、本州・四国連絡橋を核に交通網の整備と人々の生活について取扱いますが、私は、1955(昭和30)年におこった紫雲丸事故を導入に使っています。

*NHKアーカイブス 「紫雲丸沈没 -修学旅行生ら死者多数-

5月11日早朝、客貨船「紫雲丸」と貨物船「第3宇高丸」が衝突し、紫雲丸が沈没しました。

乗客は730人、そのうち168人が亡くなっています。しかも、犠牲者168人のうち108名は、小学校・中学校の児童生徒など、修学旅行のために乗船していた人たちでした。

多くの子どもたちが命を落としていますが、生き残った児童生徒たちは、どれだけ心に深い傷を負ったことでしょう。

ネットで調べたところ、愛媛県の庄内小学校の関係者30名(児童29・PTA会長1)が亡くなっており、実際に事故に遭遇した方のHP「紫雲丸事件追悼録-いでたちしまま-」を読むと、事故当時のことだけでなく、事故後のことがよく分かります。

*下の地図は、このホームページをもとに私が作成したものです。

以下、庄内小学校の修学旅行について、紫雲丸事故を体験した人の証言風にまとめてみました。

◆ この修学旅行には、私たち児童78名、引率の先生などの大人30名、計108名が参加しました。

① 5月11日(水)午前1時33分、私たちは壬生川駅に着いた汽車に乗車し、修学旅行が始まりました。

② 午前5時52分、列車は高松桟橋駅に到着。私たちは整列して桟橋へ行きました。高松港には「紫雲丸」が白色の巨大な船体を横たえていました。港はどんよりと曇っていました。

③ 6時40分、紫雲丸は高松港を出発しました。

④ 紫雲丸は、高松港を大きく旋回し、港外に出ました。数十羽のカモメが、風の中を舞いながら、船を追ってきました。

⑤ 男子児童のほとんど全員が甲板に出て、海をながめたり、カモメを見たりしながら、甲板を走り回っていました。

⑥ 出航して10分ぐらいたつと、霧がだんだんと濃くなってきました。右舷からは、霧の向こうに浮かぶ女木島が見えました。

⑦ 出航後16分、突然、事故が発生しました。「第3宇高丸」が「紫雲丸」の右舷側に激突。紫雲丸の船腹に大きな穴があきました。

⑧ 衝突から沈没までわずか5分でした。この沈没により、庄内小学校関係では、児童78名のうち29名(男子6名、女子23名)、そしてPTA会長1名、合計30名の命が奪われました。

⑨ 救出作業 ⇒ 高松市へ移動

⑩ 5月11日夕刻、生存者は高松駅を出発。午後10時前、伊予三芳駅に着きました。その夜は、冷たい五月雨が降っていましたが、駅には大勢の人が迎えに来ていました。

⑪ 5月12日(木)は臨時休校となりました。

⑫ 5月13日(金)に休校が解かれ、私たち生存者も登校しました。

⑬ 学校に着き、不安な気持で教室に入ると、たくさんの机に白い花束が置かれていました。だれの机であるかがすぐに分かり、そのとき友達を失った寂しさと悲しさがどっとこみ上げてきました。

◆ 庄内小学校の修学旅行の初日の目的地は三井玉野造船所でした。午前中にこの造船所を見学し、午後に高松に戻って市内に宿泊。翌日、屋島や琴平を見学して帰郷する予定だったようです。残念なことに、初日の朝にこのような痛ましい事故が起こりました。

 

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