今回の投稿は、北洋軍閥の流れをくむ奉天派の張作霖と、その息子の張学良という人物が大きく関係しています。
満州を支配する奉天派軍閥は、南満州鉄道株式会社(満鉄)に並行する鉄道を敷設することで、日本の満州権益を圧迫する政策を推進しました。
このことが、1931年に勃発した満州事変の要因の一つという説があります。
*中学校の教科書では帝国書院が、この平行線敷設について触れていますので、私のブログ『教科書を比較する➀ 満州事変が勃発する背景』をご覧ください。
◆ 下の地図は、南満州鉄道株式会社が設立された、1906年当時の鉄道路線図です。
*参考文献 「満鉄」(著:原田勝正)p57
◆ 1920年代になると奉天派軍閥は、日本側からの「日清満州善後条約付属取極め」(1905年12月)に違反している、「満蒙四鉄道借款契約」(1918年)に該当する路線であるという抗議を無視して、満鉄包囲線(並行線)を敷設しました。
*打通線:打虎山(別名:大虎山)駅から通遼まで
*海吉線:奉天省の海竜城から吉林省の吉林まで
◆ 以下は、満鉄(著:原田勝正)p134からの抜粋です。
張学良は、より積極的な方策をとりつつあった。前に述べたように中国側は満鉄並行線の計画を以前からすすめてきていた。1927年10月には打虎山・通遼間を、1929年5月には吉林・海竜間を開業した。前者は、満鉄線の奉天・四平街の西側を、後者は、四平街・長春間の東側を走る。日本側は。1905年12月に結んだ日清満州善後条約付属取極めに違反すること、さらに後者は1918年の「満蒙四鉄道借款契約」に該当する路線であるとして抗議したが、中国側はこれを無視した。
◆ 並行線のために満鉄が取り扱う貨物輸送量が激減し、満鉄は、大きな減益と莫大な損失をこうむったという説があります。(反論もあるようです。)