今回は、「日清戦争」(著:藤村道生)を参考に、下関講和条約で日本が獲得した遼東半島(リヤオトン)の領域について見てみましょう。
1895(明治28)年3月19日、清国の全権大臣・李鴻章が門司に到着しました。そして、翌日(3/20)から下関の春帆楼(しゅんぱんろう)において、会議が始まりました。
会議では、日本(4/1)と清国(4/9)から下図のとおり、それぞれ割譲案が提示されました。
この会議には列国の注目が集まっており、日本政府は、ドイツ、ロシア、イギリス等の干渉と軍部の動向を計量し、清国に早期に講和条約を承認させることが得策だと考えました。(p167)
そして、4月17日に調印された下関条約で合意した領域は、下図のとおりです。
当初、清国は遼東半島の割譲はできないと考えていましたが、最終的には遼東半島の割譲に応じました。
このときの外務大臣は陸奥宗光ですが、4月23日に「外務省にヒトロヴォ・ロシア公使、グットシュミット・ドイツ公使、アルマン・フランス公使が訪れ、日本の遼東半島占領は、①清国の首都を危うくし、②朝鮮国の独立を有名無実とし、③極東永久の平和に障害をあたえる、との理由をあげて放棄を勧告」(p173)してきました。
この三国干渉後、1898(明治31)年にロシアは、遼東半島南端(関東州)の租借権とハルビンから旅順までの鉄道の敷設権を、清国に認めさせます。
ロシアが租借した関東州は、日本に譲渡された面積に比べるとかなり狭い範囲ですが、この後、ロシアによって旅順は軍港として、大連は貿易港として大規模な開発が行われます。