日本は日露戦争の勝利により、東清鉄道の南満州支線の一部(長春-旅順間)を獲得しますが、東清鉄道とはどのような鉄道なのかを調べてみました。
*1895年の三国干渉の後、ロシアが満州における鉄道敷設権を獲得して建設したのが東清鉄道で、①満州北部の路線と②満州南部に延びる支線の2つから成ります。
*譲り受けた長春・旅順間の路線を母体して、1906年に設立された特殊会社が南満州鉄道株式会社です。
今回は、原田勝正著『満鉄』(p13~)の記述を参考に説明します。
1. 満州北部の路線(満州里-グロデコヴォ間)
・1895年9月、ロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式に清国の李鴻章が出席。ロシアの交通大臣ウィッテが、東清鉄道の建設及び付属地設定を希望し、李鴻章に承認させた。
・1896年9月、東清鉄道密約(露清カッシニ密約)が結ばれる。清国は、ロシアが満州里(清)-グロデコヴォ(露)間の約150kmに鉄道を敷設し、これを80年間所有することを承認。
・1898年5月、ハルビンを起点として東西に向けて工事が開始された。
2. 南部支線(ハルビン-旅順間)
・1898年3月、ロシアは清国に対して遼東半島の租借を強要、条約の調印にこぎつけた。
*この条約は、満州北部の路線工事の着工の2か月前に結ばれたことになる。
*旅順・大連の租借期間は25年であった。鉄道の方は、36年後には清国がロシアから買い取れることになっていた。
・租借要求の対象は、日清戦争によって日本が清国から獲得した地域、すなわち、ロシアが三国干渉によって清国に返還させた地域、よりもかなり狭く、遼東半島の南端部分のみだった。
・ロシアの意図は、青泥窪(ダルニー:後の大連)に貿易港を、旅順に軍港を建設することにあった。
・この条約によって、ロシアは、ハルビンから南下して旅順・大連にいたる鉄道の敷設権も獲得した。
◆ この南部支線は、かなり軍事色の強いものでしたが、原田勝正著『満鉄』(p16)には、次のように記されています。
当時予備役将校としてハルピンで写真館をひらいていた石光真清(いしみつまきよ)は、この鉄道や旅順要塞の写真を撮影することにこころをくだいた。彼はハルピン駐在のロシア軍将校にたくみに取り入った。やがてロシア軍事施設の写真撮影の御用をうけたまるようになり、鉄道沿線や旅順要塞の写真撮影を仕事とするようになった。
しかしロシア軍は、焼付け写真だけでなく、原板の納入を義務づけた。焼付け写真も枚数を検査されるので、余分に焼き付けることができない。これでは写真を東京へ送ることができない。彼は一計を案じて、わざと失敗写真をつくることにした。こうすれば、これは失敗写真だから破棄するといって手もとに置くことができる。こうして大量の「失敗写真」が東京に送られた。
ロシア軍の監視はきわめてきびしかった。彼は写真撮影のために、彼自身または助手が各地を旅行して沿線のロシア軍関係施設の調査を極力おこなおうとした。しかし、その目的達成はなかなか困難であった。もともと東清鉄道は外国人の利用を禁止していた。ここにもロシアがこの鉄道の軍事的価値を重視していたことが推測できる。