第2回目は、三国干渉後のロシアの満州経営について、東清鉄道の敷設と旅順・大連の建設に注目して見てみましょう。
◆ 日本は日清戦争の勝利し、下関条約によって遼東半島を獲得しましたが、1895年4月23日の仏・独・露からの 三国干渉 に屈し、清国へ返還しました。
その後ロシアは、日本への賠償金に対しても借款供与を申し出、その見返り(遼東半島返還・借款供与)として1896年に清国と協定(露清密約)を結び、満洲北部に鉄道の敷設権を得ることに成功しました。さらに1898年には、遼東半島南端(旅順・大連)の租借権とハルビンから大連・旅順に至る支線の敷設権も獲得しました。
この満州北部の路線とハルビンから南に延びる支線を総称して東清鉄道といいます。
◆ 旅順と大連の租借権を得たロシアは、膨大な資金を投入して、旅順は軍港として、大連は商業港として建設に邁進しました。
◆ 東清鉄道の建設が始まった頃の満州北部は、住民もまばらな荒涼とした場所でしたが、鉄道工事をきっかけに建設景気がわき起こり、建設労働者やその労働者を目当てとした商人が集まって来ました。そして、その中には日本人の姿もありました。また、ロシアが旅順と大連の建設工事を始めると、ここにも大勢の日本人が集まって来ました。
日露戦争前の在満州日本人の状況をまとめるならば、満州は人口希薄な未開地であったため日本人が従事できる職業は少なかったが、ロシアが行った東支鉄道や旅順・大連の建設を契機に建設業者や労働者が登場した。次いで、建設業者や労働者を顧客にする商人や売春婦がやって来た。また営口ではわずかながら貿易商が活躍していた。在満日本人の職業は労働者、商人、売春婦に大別でき、会社勤めをするサラリーマンや役場に勤める公務員などはいなかった、さらには、家族をともない定着しようとした人もほとんどいなかった。
( 満州の日本人 P12 )
◆ 遼東半島の南端にある大連は、青泥窪(チンニーワー)とよばれる寒村でしたが、1891年に清国が軍港を設けたことから近代化が始まります。日清戦争では日本軍に占領されますが、三国干渉後に租借したロシアは、港湾と市街地の建設に着手しました。このときロシアは、ダルニー(ロシア語で「遠方」の意味)と名付けました。
― 帝国書院「大連の歴史的街なみと最新の高層ビル」 ―
◆ 今回も参考文献として、次の2つの本を使用しました
① 「満州の日本人」 塚瀬 進
満洲事変まで約20万人の日本人が暮らした満洲。小売商や満鉄社員らの暮らしを、「満洲史のなかの日本人」という観点から復元。
② 「〈満州〉の歴史」 小林 英夫
13~19世紀の「清朝封禁の地」から、20世紀の「満洲国」の成立と消滅へ。 近代日本が中国東北の地に抱いた野望はなぜ挫折したのか。