◆勘合貿易は儲けが大きいことから、下表のように日本側から多くの船が頻繁に寧波へ入港します。

*勉誠出版 『日明関係史研究入門』 アジアのなかの遣明船 (p13)

 船数 寧波入港(明歴) 皇帝(代)
 ? 1403年 (永楽元) 永楽帝(3)
1404年(永楽2) 永楽帝(3)
1405年(永楽3) 永楽帝(3)
1407年(永楽5) 永楽帝(3)
1408年(永楽6) 永楽帝(3)
?  1410年(永楽8) 永楽帝(3)
5隻 1433年(宣徳8) 宣徳帝(5)
 6隻 1435年(宣徳10) 宣徳帝(5)
9隻  1453年(景泰4) 景泰帝(7)

◆明朝は中華帝国の度量を持って、遣明使節を朝貢使節として迎え入れましたので、恩典として許される公貿易のレートは、民間貿易のレートよりはるかに高いものでした。 また、寧波に上陸して以降、帰国するまでの滞在費の全てを明側が負担しました。

◆しかしながら、1451年に義成(義政)が派遣した勘合船は、1453年に寧波へ入港しますが、船数9隻、渡航人員1200人という空前絶後の規模でした。

◎この膨張ぶりに危機感を募らせた明朝は、景泰約条(1454年)とよばれる制限規定を作りました。

➀10年1貢
➁船は3隻以内
➂1隻の乗員は100人以内

◎しぶしぶですが日本側はこの規定を守り、約10年の間隔を置いて勘合船を派遣します。

◎10回目に派遣された勘合船は3隻で、1467年に2隻が、1468年に1隻が寧波に入港しています。

【参考】 明朝側が貿易を制限するために定めたものとして、宣徳要約が有名ですが、本当にこのような条件を明朝が出したのかと疑問視されており、後世の誤想だという意見もあるようです。

宣徳要約(宣徳条約/永享条約) 1433? 1434?
➀貿易は10年に1貢
➁船は3隻、乗組員は 300人
➂刀剣は3000本以下

勘合貿易⑩ 馬の献上