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満州と日本 ① ~ 日清・日露戦争以前・人口希薄な未開の地 ~

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中国東北部「満州」と日本の関係について、2つの書籍をもとにシリーズで投稿したいと思います。

第1回目は、日清・日露戦争以前の満州についてです。

「満州の日本人」  塚瀬 進
満洲事変まで約20万人の日本人が暮らした満洲。小売商や満鉄社員らの暮らしを、「満洲史のなかの日本人」という観点から復元。

「〈満州〉の歴史」 小林 英夫
13~19世紀の「清朝封禁の地」から、20世紀の「満洲国」の成立と消滅へ。 近代日本が中国東北の地に抱いた野望はなぜ挫折したのか。

女真族のヌルハチ(初代皇帝)が、1616年に「後金」を建国し、第2代のホンタイジが1636年に国号を「」に改めました。そして、第3代皇帝の順治帝のときに、清は万里の長城を越え、1644年に首都を北京に遷しました。

*後金を建国した初代皇帝ヌルハチは、民族名を女真から満珠(まんじゅ)と改め、都を盛京(瀋陽)に定めました。この満珠(まんじゅ)がいつの間にか満洲になり、地名としても使われ、さらに満州と簡略化されるようになりました。 -〈満州〉の歴史 p16 

満州は、清朝発祥の地として、当初は何人も立ち入ることのできない封禁の地でしたが、順治帝のときに北京に都を遷したころから、清朝の軍事力を支えてきた八旗の主力とその家族は中華へ移動し、満州の空洞化が生じ始めました。そのため、清朝は、華人の移民を奨励するようになりました。一方で、満州では旗地の売買が活発化するなかで、清朝を支えた旗人は土地を手放して没落していきました。

*満州の牧草地や山林、森林は次第に耕され耕地へと変貌しますが、開拓を担ったのは山東省や河北省からの漢人移住者でした。 ―〈満州〉の歴史 p18

満州が世界経済の一環に包摂されるようになるのは、1858年の天津条約に基づいて、牛荘(営口)が開港されてからです。満州特産の大豆(大豆・大豆油・大豆粕)が取り引きされることで栄口がにぎわいだし、それ以降、漢人の満州開拓が促進されます。―〈満州〉の歴史 p19

*下のGoogleマップは営口です。あまり馴染みのない港町ですが、大連が発展する以前は、この町に日本の領事館がありました。

それでも、日清戦争当時(19世紀末)の満州は人口希薄な未開の地であり、日本人が移住して、日本で働く以上の賃金を得ることができるような魅力的な場所ではありませんでした。(満州の日本人 p6)

日本と清が戦火を交えた日清戦争では、満州もその戦場として戦禍をこうむりますが、皮肉なことに、漢人の満州移民が激増しました。危険と隣り合わせの戦場では多くのビジネスチャンスが生まれ、貨幣経済の浸透とともに好景気となり、一攫千金を夢見て多くの漢人が満州の地に移住しました。20世紀初頭の在満漢族の人口は、1326万人を突破しました。 -〈満州〉の歴史 p24

*1900年ごろの満州の漢人の人口は推定で約1700万人(p17)とあり、どちらの人口が正しいのかは不明です。

◆ 是非押さえておくべきことは、満州が大きく発展を始めるのは、三国干渉の後、旅順と大連を租借したロシアが、東支鉄道(東清鉄道)の建設を始めてからということです。鉄道建設をきっかけに建設景気が沸き起こりました。ロシアによる開発が始まる以前の満州北部は、まだまだ、住民もまばらな、荒涼とした場所だったのです。(満州の日本人 p7)

満州と日本 ② ~ 三国干渉後のロシアの満州経営 ~

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