◆下の絵は、教科書に必ず載っている天正遣欧少年使節の絵です。
◎この絵は京都大学が所蔵しており、京都大学電子図書館 というサイトで、デジタル画像が公開されています。
*天正遣欧使節の肖像画 “Newe Zeyttung auss der Insel Japonien”(1586年)
右上・伊藤マンショ、右下・千々石ミゲル、左上・中浦ジュリアン、左下・原マルチノ。中央は案内兼通訳のメスキータ神父。
*千々石ミゲルを主人公とした『マルガリータ』(村木嵐)は松本清張賞を受賞しており、とても読み応えがありました。
◎この4人は帰国後、聚楽第に赴き、秀吉の前で次の曲を演奏したといわれています。(1591年3月3日)
*ジョスカン・デ・プレ (Josquin des Pres)作曲 『千々の悲しみ』”Mille regrets”
左の男性が演奏しているのは、リュート(伊:Liuto;英:Lute)という楽器です。十字軍によって中東からもたらされたとか、スペインのイスラム教徒とキリスト教徒の間を横断して運ばれたなどの説がありますが、ルネッサンスからバロック期にかけて盛んに使用されました。
*詳しくは、『おらしよ』または隠れ切支丹の伝えた音楽 というサイトをご覧下さい。
★ 以下は、『京都大学電子図書館』からの引用です。
戦国時代から安土桃山時代にかけて、主に西日本の大名たちの中にキリスト教に入信する者があらわれました。彼らは”キリシタン大名”と呼ばれています。
1582(天正10)年、九州のキリシタン大名である大友宗麟、有馬晴信、大村純忠によって、4人の少年がヨーロッパのローマ教皇のもとに派遣されました。彼らは”天正遣欧使節”と呼ばれています。(伊藤マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノ)
派遣の目的は、日本でのキリスト教布教の支援を教皇から得ること、かつ、日本での布教実績を教皇にアピールすることでした。
彼らは1582年2月に長崎を出航、約3年間の巡航の末、1585年3月にローマに到着しました。当時のローマ教皇・グレゴリウス13世やスペイン国王に謁見するなど、ヨーロッパ各地で歓待を受けました。彼らに関する出版物も多数発行されています。また、彼らはキリスト教についてばかりでなく、西洋音楽や印刷技術も学んだようです。
1590年、帰国した彼らを待っていたのは、豊臣秀吉による伴天連追放令(1587)という厳しい現実だったのでした。
日本での布教が禁止されたキリスト教は、その後日の目を見ることはありませんでしたが、彼らが持ち帰った西洋式活版印刷機と印刷技術は、「日葡辞書」「伊曽保物語」のような”キリシタン版”と呼ばれる出版物など、日本における印刷文化に大きく貢献しています。