◆コロンブスの西回り航路の開拓は、大航海時代幕開けの象徴です。

◆今回は、コロンブスの経歴と第1回航海について整理してみました。

学研まんが世界の歴史9『ルネサンス・新航路発見と大航海士コロンブス』 がけっこうお勧めです。

コロンブスのお墓は、スペインのセビリア大聖堂にありますが、彼が、その附属図書館で東方見聞録を読み、書き込みまでしていたというテレビ番組を見たことがあります。
*真偽のほどは定かではありません。
*2013年8月13日 NHK総合 『世界遺産ドリーム対決!』

(1) 彼の経歴について

・イタリアのジェノヴァ出身であり、織物職人の子どもという説が有力のようです。
・1476年、乗船していたジェノヴァの商船隊がフランス武装船団の攻撃を受けて船が沈没したため、ポルトガルのラゴスの町に上陸します。
・その後、リスボンに移り住み、海図をつくったり、大西洋を広く航海しています。
・1477年には、ある商館に雇われて砂糖の買い付けのためにマデイラ諸島まで行っています。
・1479年、マデイラ諸島のポルト・サント島の世襲総督の娘と結婚。

(2) 第1回航海について

➊ 1492年8月3日、スペイン国王の援助を受けて、3隻の船を率いてスペインのパロス港を出航します。
*サンタ・マリア号(提督:コロンブス)、ピンタ号(船長:ピンソン)、ニーニャ号(船長:ニーニョ)
*アラゴン王のフェルナンド2世、カスティーリャ女王のイサベル1世

➋ 途中、大西洋に浮かぶカナリア諸島で補給を済ませ、9月1日に出航。

➌ 10月12日、カリブ海のバハマ諸島の未知の島に上陸。この島を、サン・サルバドル島と名づけました。
*彼は、カリブ海諸地域を周航(4回の航海)しますが、生涯にわたって東アジアの一部だと信じていました。

➍ サン・サルバドル島には黄金はなかったので、付近の島を次々と探検しました。

➎ 10月27日、キューバ島を発見。キューバ北岸バリアイ湾に上陸し、航海日誌に「人間の目が見たもっとも美しい土地」と記しました。
*11月2日、コロンブスは2名の部下にこの島の探検を命じましたが、4日後に帰ってきた彼らは、「奥地の村では、片手に松明をもった男女が、煙を吸っていた。くれたので吸ってみると、酒に酔ったようになって、体が軽くなった。」と、タバコについて報告しています。
*バリアイ湾の綴りは、Bahia de Bariay です。
*3隻のうちの1隻『ピンタ号』はキューバ付近ではぐれてしまい、サンタ・マリア号とニーニャ号だけになってしまいました。コロンブスは、ピンタ号の船長が黄金を探すために、わざと船団から離れたと疑っています。

➏ 12月6日、スペインの海岸に似ている島を発見しました。そのことからイスパニョーラ島と命名しました。
*12月25日のクリスマスの夜、沖に停泊していたサンタ・マリア号は、激しい潮の流れに巻き込まれて岸の方に流されてしまい、座礁しました。
*彼は、サンタ・マリア号を解体して、ラ・ナビダードに砦を築きました。これがアメリカ初の入植地です。
*1496年にコロンブスの弟『バルトメロメオ』が島の南部に建設した『サント・ドミンゴの植民都市』は、1990年に世界遺産に登録されました。

➐ 1493年1月4日、44人をイスパニヨーラ島に残して、スペインに向けて出航しました。
*最後の1隻、ニーニャ号だけでは全員を乗せることが無理だったため44人を残しました。
*結局、第1回の船旅では黄金を見つけることができませんでしたが、帰りの船にはパイナップル、タバコ、トウモロコシ、オウムなどの珍しい品物が積まれていました。

➑ 3月15日、スペインのバロス港に到着。4月半ばにバルセロナで、両国王(イサベル女王、フェルナンド王)に謁見しました。

*6人の先住民とわずかな黄金を含む品々を献上したところ、両国王は大喜び。

 

【参考】 同志社大学人文科学研究所第9研究会 人文科学研究所第30回 公開講演会

ポルトガル、ジェノヴァ、スペインの商人たちは、15世紀中頃から積極的に大西洋に進出し、「奴隷狩り」に手を添めていました。一方、キリスト教君主に属さない島々は、キリスト教を布教するという目的で最初に発見したキリスト教君主が領有(ポセシオン)できるという「慣行」的理論も定着していきました。コロンブスが到着したサン・サルバドール島で最初に行なった儀式もカトリック両王のための「領有宣言」でした。そしてコロンブスは、発見した島々に金を探すわけです。だが期待通りの金が発見されないことが明らかになると、やがてこれまでの地中海商人の行動に倣って、先住民インディオを奴隷化する方向に傾いていきます。