職(しき)を否定した『太閤検地』
豊臣秀吉が行った太閤検地により、荘園領主や有力農民が持っていた土地にからむ複雑な権利が否定されました。
この複雑な権利を職(しき)といいますが、太閤検地は、耕作者(作人)を検地帳に登録することで、荘園領主(公家、寺社)、在地地主(国人)、有力農民(名主)の職を否定しました。
つまり、複雑な職の体系が否定されることで、佐合(さくあい)という、領主と耕作者との間で搾取する形態が廃止されたのです。
さて、このことを分かりやすく説明するにはどうすればいのでしょうか?
ずっと、悩んでいます。 太閤検地についてもっと上手に教えることができないものかと。
ネットでいろいろ調べてみたところ、熊本県の先生の指導案を見つけました。教材研究・ネタ作りに役立ちそうです。
『ヨーロッパ人との出会いと全国統一』熊本県中学校教育研究会社会科部会
以下、この指導案からの引用です。
太閤検地は、標準収穫高を「石高」で表す石高制に統一し、一地一作人として、直接、領主が領民を支配するようにした。その結果、農村の土豪層などの中間搾取(作合)を認めず、土豪層から土地を取りあげることになるとともに、農民にとっては、課税を免れていた隠し田や生産増による得分を失うことになった。そのため、反対の一揆が各地で起こっている。肥後でも、検地を実施しようとした佐々成政に対して国衆たちが反抗している。その戦いは、1587年に起き、 1587山鹿市の城 村 城や三加和町の田中城(和仁城)の戦いが有名である。これら「肥後国衆一揆」に対し、秀吉は九州各地はもとより中国・四国地方の大名も動員して鎮圧した。そして、戦いから約半年後の1588 年には刀狩令を出している。このようにして肥後の旧勢力は一掃され、新しく加藤清正らが入国し、近世の支配体制へと移行したのである。