国会開設の4年後に始まった日清戦争 ~ 対外強硬論の民権派 ~
1890(明治23)年に国会が開かれますが、そのわずか4年後に日清戦争が始まりました。
皆さんは「民力休養を訴えたた民党(民権派)が多数を占めたのに、なぜ戦争を止めることができなかったのだろう」或いは「戦争が始まった後に開かれた国会で、なぜあっさりと全会一致で予算が成立したのだろう」と疑問に思ったことはありませんか。
◇ 1881(明治14)年 国会開設の勅諭
◇ 1885(明治18)年 内閣制度の創設
◇ 1889(明治22)年 大日本帝国憲法の発布
◇ 1890(明治23)年 第1回衆議院議員総選挙◇ 1894(明治27)年7月 日清戦争が始まる。
◇ 同年10月 第7回帝国議会 軍事予算及び戦争関連法が全会一致で成立。
日清戦争の教材研究をしているときに「カイゼン視点から見る日清戦争」という興味深いブログを見つけました。ブログを読んでみると、この疑問そのものが間違いであることに気づきました。
また、民主主義は素晴らしいシステムですが、最初の頃の国会を見る限りにおいては、民党(民権派)は善であり、超然内閣は悪であるという単純な固定概念をもつことは避けた方がよいとも思いました。
*このブログは、たくさんの研究書を丹念に読み込んで整理されたものです。また、国益、戦争ビジネスモデルなどの視点も面白いものです。
◆ 次の2つの頁に、戦争に至るまでの国会の動きについて詳しく記されています。
日清戦争前の日本の状況① 超然内閣と帝国議会「不況と経験不足で激しい対立」
日清戦争前の日本の状況② 対外硬派「反政府の団結スローガン」
◆ 以下はこのブログを読んで、私なりに要旨をまとめて図化したものです。
*間違っていたらすみません。ご指摘をお願いします。
・国会を開設し国民が政治に参加する機会が設けられたとはいえ、依然として薩長主導による政治が行われていたことから、民権派の考えは、国益よりも藩閥打倒の方に偏向してしまった。
・1892(明治25)年の第2回衆議院議員総選挙における大干渉選挙、その後の超然主義をとる内閣の姿勢が、より民党(民権派)の態度を硬化させた。
・政権を運営する藩閥政府は、国益を優先する責任があることから、対外政策の面では協調路線をとろうとするが、民党(民権派)はこれを弱腰として、政府を攻撃する材料とした。
*国会開設以前、条約改正担当の井上外相と大隈外相を失脚させた経験から、民権派は、慎重な協調外交よりも、威勢のいい対外強硬論に国民の支持が集まりやすことを学んでいたと思われる。
・衆議院の多数派である民党(民権派)が、協調路線を軟弱外交として批判する民衆のエネルギーを、政府打倒に振り向けることで、対外強硬の世論が高まった。
・さらに、一部の過激な思想をもつ勢力やマスコミが扇動することで世論が暴走してしまい、政府は開戦に踏み切った。
◆ 最後に、明治期の国会運営は、今の政治をよりよいものにするために参考になると思います。以下は、私なりのまとめです。
➀ 政治家は政権奪取のために党利党略を優先して行動する傾向があり、政権を担当していない野党ともなれば、国益を無視した無責任な言動をする可能性がより高まる。
➁ 政党政治を保証するシステムが確立し、円滑に政権交代が行われ、さらに内閣と各政党が国会運営の高いスキルをもっていれば、強硬論は自重され、政府も国会も国益を最優先する行動を取ることができる。
③ 過去を振り返り、歴史認識の上で自虐的な主張をする勢力がいれば、一方でそれを不快に思う勢力が台頭し、対外強硬論が高まり、そのことで国益を損なう恐れがある。