1941年4月から日米交渉が始まったものの、同年7月の南部仏印進駐により、交渉はいよいよ行き詰まってしまいました。

同年11月、アメリカからハル・ノートが提案され、これを最後通告と受け止めた日本は開戦を決意し、交渉は決裂しました。

ハル・ノートの取扱については各社でかなりの差があります。中国とインドシナからの全面撤退という部分については共通していますが、三国同盟の破棄にも触れている教科書があります。また、中国からの全面撤退については、満州事変の前の状態に戻すという表現をしているものもあります。

1.育鵬社  p233~

1941(昭和16)年4月,悪化の一途をたどる日米関係を修復するため,ワシントンで日米交渉が始まりました。アメリカは日独伊三国同盟を敵視し,中国で蒋介石政権を支援していたため交渉は難航しました。

当時のわが国は,使用する石油の多くをアメリカから輸入し,一部をオランダ領東インド(現在のインドネシア)から輸入していました。しかし,三国同盟によってオランダとの関係が悪化し,石油・ゴムなど重要物資のインドネシアからの輸入が困難になりました、そこで日本政府は,東南アジア産出の重要物資を確保するため,フランス領インドシナ南部に軍を進めました(南部仏印進駐)。
これに対してアメリカは,国内にある日本の資産を差し押さえるとともに石油の対日輸出全面禁止に踏み切り,日米の対立は決定的なものになりました。また,アメリカは,イギリス,中国,オランダとともにわが国を経済的に圧迫し,封じこめを強化しました。
首相の近衛文麿は,アメリカ大統領ローズベルトとの会談を提案しましたが実現せず,開戦に消極的だった海軍も石油問題に危機感を強めていきました。

日米交渉が行きづまるなか,軍部では対米会戦も主張されるようになりました。1941(昭和16)年11月,アメリカは,中国やインドシナからの日本軍の無条件即時撤退,蒋介石政権以外の中国政権の否認,三国同盟の事実上の破棄などを要求する強硬案(ハル・ノート)を日本に提示しました。東条英機内閣は,これをアメリカ側の最後通告と受け止め,交渉を断念し,開戦を決意しました。

 2.教育出版  p224~

日本がインドシナ南部に侵攻すると,アメリカは日本への石油・鉄などの輸出を禁止し,イギリスやオランダも協力して,日本を経済的に孤立させようとしました。国内では,この「ABCD包囲網」を打ち破るには早期の開戦しかない,という強硬論が高まりました。この緊張の解決のために日米交渉が続けられましたが,アメリカは,中国や東南アジアからの日本軍の撤兵を求めたことから,交渉はなかなかまとまりませんでした。

1941年10月,陸軍大臣の東条英機が首相になると,政府は戦争の準備を進め,昭和天皇が臨席する御前会議で開戦を決定しました。

3.清水書院  p236~

日中戦争が長引くなかで,日本はアメリカなどが中国を援助するための輸送路を断つことを目的に,フランス領インドシナ北部に進駐した。緊張が高まったアメリカとの間で外交交渉がおこなわれたが,1941年6月,ドイツとソ連の戦争がはじまると,日本はインドシナ南部にも軍を進駐させた。これに対し,アメリカは石油などの対日輸出を禁止した。その後もアメリカとの交渉は続いたが,日本の軍部は石油が欠乏する前に南方の資源を確保するために,アメリカやイギリスと開戦すべきだと主張した。

日本がアメリカやイギリスを相手に戦争をおこなうことは国力を考えれば無謀であった。しかし,陸軍大将の東条英機が首相となり,撤兵をせまるアメリカとの交渉を打ち切って開戦にふみきった。

4.自由社  p236~

日本は石油の輸入先を求めて、インドネシアを領有するオランダと交渉したが、成功しなかった。こうして、米・英・中・蘭の4か国が日本を経済的に追いつめる状況が生まれた。日本の新聞はこれを国名の頭文字から「ABCD包囲網」とよんだ。

1941年4月、悪化した日米関係を打開するための日米交渉が、ワシントンで始まったが、交渉はまとまらなかった。7月、日本の陸海軍は、インドネシアからの石油提供に関してオランダに圧力をかける目的で、仏印のサイゴン(現在のホーチミン)に入った(南部仏印進駐)。サイゴンは、日本が南進する場合に拠点となる軍事上の重要地点だった。アメリカは、在米日本資産を凍結していたが、さらに対抗して対日石油輸出を全面的に禁止した。8月、米英両国は大西洋上で首脳会談を開き、大西洋憲章を発表して、領土不拡大、国境線不変更、民族自決など、両国の戦争目的と大戦後の方針をうたった。

経済的に追いつめられた日本は、アメリカとの戦争を何とかさけようと努力した。日本は、妥協しない場合は開戦するという決意のもとに日米交渉を継続した。しかし、アメリカは11月、日本に対して、中国、インドシナから無条件で全面撤退を求める強硬な提案文書を突きつけてきた。当時のアメリカのハル国務長官の名前から、ハル・ノートとよばれるこの文書を、アメリカ政府の最後通告と受け止めた日本政府は、対米開戦を決意した。

5.帝国書院  p225~

1941年4月から日本とアメリカの間で,戦争を避けるための交渉が進められていました。しかし同じ4月に日本はソ連と日ソ中立条約を結び,北方の安全を確保したうえで,7月には石油などの資源を求めて,さらに東南アジアへ軍隊を進めようとしました。すると,アメリカは,日本への石油や鉄の輸出を制限し,イギリス・オランダなどと協力して経済的に孤立させようとしました(ABCD包囲網)。加えてアメリカは,中国を満州事変前の状態にもどすことなどを求めたため,交渉は決裂し,東条英機内閣と軍部はアメリカと戦う姿勢をかためました。

6.東京書籍  p224~

日本は,1940(昭和15)年9月,フランス領インドシナの北部へ軍を進め,次いで日独伊三国軍事同盟を結びました。さらに,1941年4月に日ソ中立条約を結び,日本の北方の安全を確保した上で、同年7月にフランス領インドシナ南部へも軍を進めました。日本が侵略的な行動を取る中で,日米関係は悪化していきました。近衛内閣は,アメリカとの戦争をさけるために1941年4月から日米交渉を行いましたが,軍部の要求などもあって,南進を止めませんでした。

フランス領インドシナの南部へ軍を進めた日本に対し,アメリカは石油などの輸出禁止にふみ切り,イギリスやオランダも同調しました。戦争に不可欠な石油を断たれた日本では,このように日本を経済的に封鎖する「ABCD包囲陣」を打ち破るには早期に開戦するしかないという主張が高まりました。

日米交渉の席でアメリカが,中国とフランス領インドシナからの全面撤兵などを要求すると,近衛内閣の次に成立した東条英機内閣と軍部は,アメリカとの戦争を最終的に決意しました。

7.日本文教出版  p232~

日本は,1940年,フランス領インドシナ北部に軍を進め,翌年には,日ソ中立条約を結んで北方の安全を確保したうえで,フランス領インドシナ南部に軍を進めました。

東南アジアに植民地をもつアメリカ・イギリス・オランダは,日本の動きに警戒を強め,経済封鎖を始めました。重要物資をアメリカに依存する日本は,アメリカと交渉して,事態の打開をはかろうとしました。アメリカは,日本軍がインドシナと中国から撤退することや,日独伊三国同盟の破棄を求め,交渉は難航しました。さらにアメリカは,日本がフランス領インドシナ南部に軍を進めると,石油の対日輸出を禁止しました。石油の約8割をアメリカからの輸入にたよっていた日本は,大きな衝撃を受けました。

1941年10月,中国からの撤兵に反対していた陸軍の東条英機が,首相となりました。東条内閣は,アメリカとの外交交渉に期限を設けて,11月末までに妥協が成立しなければ,開戦することを決めました。しかしアメリカとの話し合いは,ついにまとまりませんでした。