大政奉還後の国家構想 ~ 大君と議政院 ~

◇ 1867年11月8日(旧暦:慶応3年10月13日)、徳川慶喜は二条城において上洛中の約40藩の重臣50人ほどを集めて大政奉還の賛否を諮問しました。

*下図が有名ですが、この絵には間違いがあるようです。
「大政奉還」克明に記録
「慶喜は大広間で各藩重臣に表明した」に非ず、参加者自筆の記録を初確認 二条城伝達から150年

◇ 有名な二条城の図が史実とは違うことは残念ですが、それはさておき、翌11月9日(旧暦:10月14日)、慶喜は政権の返上を奏上し、翌11月10日(旧暦:10月15日)に天皇は奏上を勅許しました。

◇ 慶喜は大政奉還後も新政権の中で主導権を握ろうとし、それに反発した西郷隆盛・大久保利通(薩摩藩)や岩倉具視(公家)などが朝廷を動かし、天皇を中心とする新政府の成立を宣言する王政復古の大号令を出しました。

◇ では、慶喜が考えてていた政権構想とはどのようなものだったのでしょうか。それが下図です。

*この図は、「西周による大政奉還後の政体案」(EJ第2965号)というサイトを参考に作成しました。

◇ 子どもに考えさせるときには、「だれを ”大君” にすべきか」とか「だれが”大君” になるべきか」という問いかけをしてみてはどうでしょうか?

◇ 慶喜のブレーンとして、この構想を練ったのは 西周(にしあまね)という人物ですが、次のサイトも参考になります。

「もし大政奉還が成功していたら日本はどうなった?」

▪ いり豆 歴史講座「大君の国家構想」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください