教科書を比較する➀ 満州事変が勃発する背景

満州事変について取扱うときは、不確かな知識や思い込みで教えてはならないと思います。

また、様々な歴史観があり、竹を割ったような単純な見方に偏るのも危険です。

先ず私たち社会科の教師は、子どもたちに教える前に、当時の国際情勢に鑑み、様々な立場から多角的に、そして外交・軍事・産業等の面から多面的に勉強しておく必要があります。

今回は、満州事変がおこった背景について、各教科書がどのように記述しているのかを、五十音順に拾ってみましたが、共通する部分は以下の2つだと思われます。

➀ 中国において、列強に奪われた権益を取りもどそうとする動きが活発になり、日本では、満州における権益がおかされることを心配する声が大きくなった。

➁ 中国において、日本人を襲撃する排日運動や日本製品をボイコットする動きが盛んになった。

※ いくつかの教科書では幣原喜重郎の協調外交について触れている。

1.育鵬社 p226~

中国では,1911年の辛亥革命のあと,軍閥による地方政権が各地に分立していました。孫文の後をついだ国民党の蒋介石は,南京に国民政府を樹立しました。そして軍の近代化をはかるとともに,中国の統一をめざし,張作霖が率いる北京政府を打倒する戦いを開始しました(北伐)。

広東から南京,上海まで勢力をのばした国民党軍に危機感をもったイギリスは,それまでの権益を守るため,列強に共同出兵を強くうながしました。わが国でもこれに同調する意見がありましたが,外相の幣原喜重郎は出兵に応じませんでした。しかし1928(昭和3)年,北伐を進める国民党軍が済南に迫ると,田中儀一内閣は現地在住の日本人保護のため山東半島へ一時出兵し,日中両軍は衝突しました。

国民党軍の北京占領を目前にした張作霖は,日本政府の説得で,満州に引き上げようとしましたが,途中,日本軍によって列車を爆破され死亡しました。これは,一部の軍人の独断によるものでしたが,政府は,犯人をきびしく処罰することができず,これがその後の軍の独走を許す原因ともなりました。

わが国が権益をもった満州では,日本人による事業が順調に進んだため,日本人の移住者が増え,昭和初期には,20万人以上の日本人が生活していました。また満州には,わが国が権益をもつ関東州と南満州鉄道を守るための日本軍部隊(関東軍)が置かれていました。

済南での日本軍との衝突以降,中国では,国民党が中心となって,日本の中国権益の回収を求める排日運動が強化されました。排日運動の激化に対して,日本国内では日本軍による満州権益確保への期待が高まりました。

2.教育出版 p215~

蒋介石の率いる国民政府軍が,共産党をおさえて各地の軍閥を倒し,国内の統一を進めていました。そして,民族運動の高まりを背景に,これまで日本や欧米列強に認めてきたさまざまな権益を取りもどそうとしました。

1927(昭和2)年,国民政府軍が南京で外国の領事館などを襲撃すると,イギリスとアメリカは武力で報復しましたが,政党内閣のもとで協調外交を進める日本は加わりませんでした。これに対し,日本国内では,軍部や国家主義団体などの間から,政府の外交政策は軟弱であると非難する声があがりました。

国民政府軍の勢力が北京に近づくと,日本政府はこれを阻止しようとして,山東省に出兵しました。また,満州(中国の東北部)では,現地の日本軍(関東軍)が,軍閥の指導者の張作霖を爆殺する事件を起こし、満州占領のきっかけにしようとしましたが失敗しました。

中国が国民政府によってほぼ統一されると,南満州鉄道などの日本の権益が集中する満州にも影響が及ぶようになりました。日本国内では,「満州は日本の生命線である」として,武力を用いてでも日本の権益を守り,さらにそれを広げようとする主張が高まりました。

中国が国民政府によってほぼ統一されると,南満州鉄道などの日本の権益が集中する満州にも影響が及ぶようになりました。日本国内では,「満州は日本の生命線である」として,武力を用いてでも日本の権益を守り,さらにそれを広げようとする主張が高まりました。

3.清水書院 p228~

政党内閣のもとでは,1921年~22(大正10~11)年のワシントン会議や1930(昭和5)年の海軍軍縮会議など,列強と強調した外交が行われた。ところが,1930年の会議のとき,海軍の軍部が,海軍軍縮条約で日本が譲歩しすぎているとしてその調印に反対した。それにもかかわらず全権代表が条約に調印したのは,天皇のもつ軍隊を率いる権限をおかすものだとして政党内閣を強く攻撃した。

軍人たちは,軍縮だけでなく,中国との関係でも不満をつのらせていた。このころ,中国では列強がおつ権益を回収し,国権を回復していこうとする運動が高まっていた。一部の軍人たちは,日本が満州(中国東北部)や内モンゴルにもっていた鉄道や,遼東半島の租借権などの権益を失うことを恐れ,外交による調整ではなく,軍事的な手段で対処すべきだと考えた。

民衆のあいだでは,政党内閣が苦しい民衆の生活を改善するための政策を十分に進めていないことに不満が高まっていた。また,中国やモンゴルにあった日本の権益は戦争という犠牲をはらって日本が獲得したもので,日本にとってはなくてはならないと信じていた民衆は危機感を強めていた。政党間のはげしい対立抗争やしばしばおこった汚職事件も民衆の政党への期待を失わせた。

中国国民党は,孫文の死後は蒋介石の指導のもとで勢力を広げ,1927年には南京を首都とする国民政府をうち立てた。国民政府は北方への勢力拡大をはかり,中国東北部(満州)の軍閥と和解して中国統一を果たすと,日本が所有する南満州鉄道や遼東半島にある日本の租借地を取りもどそうと主張するようになった。

4.自由社 p228~

1919年孫文は,国民党を創設した。その後をついだ蒋介石は各地の軍閥と戦い(北伐)、国内統一をめざした。1928年、蒋介石は北京をおさえて統一を完了した。国内統一の動きは、日本が権益をもつ満州にも到達した。しかし、地方の軍閥は残り、混乱はつづいた。

このころの中国では、不平等条約によって中国に権益をもつ日本や欧米諸国を排撃する動きが高まった。それは列強の支配に対する中国人の民族的反発だったが、暴力によって革命を実現したソ連の共産主義指導の影響も受け、過激な性格を帯びるようになった。勢力を拡大してくる日本に対しても、日本製品をボイコットし、日本人を襲撃する排日運動が活発になった。

政党内閣のもとで2期にわたって外務大臣をつとめた幣原喜重郎は,英米と強調して条約を守りつつ,中国の関税自主権回復の要求を支持するなど,中国の民族感情にも同情をもって対応する、国際協調外交を推進した。しかし,中国の排日運動はおさならなかった。日本では軍部を中心に,幣原の外交を軟弱外交として批判する声が強くなった。

1928(昭和3)年、日本は山東省に居留民保護を口実に軍隊を派遣した(山東出兵)。関東軍は満州の軍閥・張作霖を爆殺し、満州への支配を強めようとした。これに対し、中国人による排日運動も激しくなり、列車妨害やテロ活動が頻発して、日本人居留民の安全がおびやかされた。さらに、北にはソ連の脅威があり、南からは国民党の力もおそんできた。こうした中、関東軍の一部将校は、満州を軍事占領して排日勢力を駆逐し、日本の権益を守る計画を練り始めた。

5.帝国書院 p218~

中国では,孫文の死後に中国国民党を率いた蒋介石が,1927(昭和2)年に南京に国民政府をつくり,翌28年には中国をほぼ統一しました。そうしたなか,中国では,うばわれた主権を回復しようという声が高まり,日本の中国での権益の中心であった南満州鉄道に並行する鉄道を建設する動きも起こりました。これに対して「満州」にいた日本の軍隊(関東軍)は,1931年9月,奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破する事件を起こし,中国側のしたこととして攻撃を始め,「満州」全体を占領しました(満州事変)。

6.東京書籍 p217~

1927年に南京に作られた国民政府は,不平等条約の撤廃を求める民族運動の高まりを背景に,日本などの列強が持つ権益の回復を唱えました。また、協力していた中国共産党を弾圧し,内戦を始めました。

国民政府が北京に近づくと,危機感をいだいた現地の日本軍(関東軍)は,満州の直接支配を目指して,1928年に満州の軍閥であった張作霖を爆殺しました。しかし.そのねらいとは逆に,国民政府の支配が満州にまでおよぶ結果になりました。

中国において日本が持つ権益を取りもどそうとする動きがさらに強まると,関東軍は1931(昭和6)年9月18日に奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し(柳条湖事件),これを機に軍事行動を始めました。(満州事変)

7.日本文教出版 p225~

政治的に分裂していた中国では,孫文の死後,蒋介石が国民党(国民政府)の指導者となりました。蒋は1927年,国民政府を南京に移し,国家統一をめざして北京に軍を進めました。日本政府は,現地の日本人保護を名目に,山東省に出兵しました。翌年には,現地の日本軍(関東軍)が独断で,満州に勢力をもつ軍閥の指導者を列車ごと爆殺しました。

こうした日本の動きを見て,中国の人々のあいだに,排日機運が高まりました。また,列強が中国にもつ権益の返還を求める運動も広がりました。これに対し,既得権益の維持・拡大をねらう日本側では,交渉による解決ではなく,武力をもって相手を屈服させることを主張する強硬論が台頭しました。

1930年,ロンドン海軍軍縮条約に調印した政府を,海軍内の強硬派や国粋主義者が,はげしく攻撃し,浜口雄幸首相が狙撃される事件も起こりました。その背景には,軍縮政策や中国政策をめぐる対立がありました。政党政治か軍部主導の協力政治か,国際協調か軍事力発動か,中国の民族運動と世界恐慌に直面して,日本の針路をめぐる対立が,はげしさをましていました。

中国の統一を進める国民政府は,日本が満州にもつ権益は,不当に期限がのばされたものだと批判しました。これに対し,日本の軍部や勢力拡大をめざす人などのの中には,満州を中国から切りはなして領有しようとするものが現れました。

◆ 自由社の教科書には、ジョン・マクマリーというアメリカの外交官の見解が紹介されています。

私はまだ読んでいませんが、彼には『平和はいかに失われたか』―大戦前の米中日関係もう一つの選択肢 という著作があるようです。

教科書を比較する➁ リットン調査団

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