今回は、日露戦争前後に日本人がどれくらい住んでいたのかについて解説します。

戦前も戦後も、清国政府からは、満州全域に自由に住む権利を与えられていたわけではなかったということを念頭に読んでください。

1 日露戦争の直前の日本人

◆ 日露戦争が始まる前の満州はロシアの勢力圏であり、しかも清国政府から合法的な居住権を与えられていなかったので、ロシアが管轄する東清鉄道(東支鉄道)の附属地にロシア側の許可をもらってほそぼそと居住していました。

◆ また、日本人が働けるような職業が限られていたため、満州は積極的に移住して住み着くほどには魅力的なところではありませんでした。

戦争が始まる前年、1903(明治36)年6月の時点において、在満日本人の総数は2,500名にすぎずませんでした。

東清鉄道の附属地ごとにみてみると、旅順775名、大連360名、大石橋37名、営口152名、遼陽82名、奉天47名、鉄嶺57名、開原25名、公主嶺41名、長春43名、ハルビン681名、横道河子88名、海林14名、寧古塔28名でした。
*参考:「満州」の日本人 (塚瀬 進)p10

◆ 特に旅順と大連に住む日本人が多かったのは、ロシアがこの2つの港の建設工事を始めた後に、日本人の建設労働者が集まり、彼らを相手にする日本人の雑貨商と売春婦がつられて移り住んだからです。

日露戦争前の在満日本人の状況をまとめるならば、満州は人口希薄な未開地であったため日本人が従事できる職業は少なかったが、ロシアが行った東支鉄道や旅順・大連の建設を契機に建設業者や労働者が登場した。次いで、建設業者や労働者を顧客にする商人や売春婦がやって来た。
在満日本人の職業は労働者、商人、売春婦に大別でき、会社勤めをするサラリーマンや役場に勤める公務員などはいなかった。さらには、家族をともない定着しようとした人もほとんどいかなった。
日露戦争前の在満日本人は、不安定な居住権や日本とは異なる状況に対応するため、中国人やロシア人との関係をもつ必要があった。
*「満州」の日本人 p12

2 戦後(ポーツマス条約締結後)

◆ ポーツマス条約に基づき、ロシアから長春-旅順間の鉄道を譲り受け、関東州(遼東半島先端)の租借権も手に入れました。そして、これまでは営口にしかなかった領事館が、奉天、安東、ハルビン、吉林、長春、遼陽、チチハルにも設立されました。

◆ しかしながら、日本人の居住が合法的に認められていたのは、次の場所に限られていました。そして、これら以外の場所は外国人である日本人が暮らすのは非合法な未開放地であり、日本人が未開放地に居住すれば、いつ中国側から退去命令が出されても文句は言えませんでした。 *「満州」の日本人 p20

① 関東都督府の管轄する関東州(遼東半島先端で旅順・大連を含む。)
南満州鉄道株式会社が管轄する満鉄付属地
③ 領事館が管轄する開放地(営口、奉天、安東、ハルビン、吉林、長春、遼陽、チチハル)

◆ 在満日本人の職業構成は、次のように大きく3つに大別できました。

① 満鉄や関東都督府といった日本の満州経営機関に勤務する人
② 貿易関係者(大連港)
③ 在満日本人を相手にする小売商や飲食店などの商業・サービス業者

ただ、満州には賃金の安い中国人の労働力が豊富にあったので、工場労働者、建設労働者、車夫などの単純な肉体作業を行う日本人は皆無であり、日本人の人口は期待されたたほどには増えませんでした。

◆ 在満日本人の人口  *「満州」の日本人 p46

年 次        人 口
1908年 58,433 人
1910年 76,333 人
1912年 88,971 人
1915年 101,586 人
1917年 120,063 人
1019年 147,493 人

◆ このような現状を受け、日露戦争で多くの犠牲を払って権益を手に入れたにもかかわらず、必ずしも満州経営はうまくいっていないという悲観論も提唱されました。

満州と日本 ⑦ ~ 奉天派軍閥による満鉄包囲線の建設 ~