清国は、北清事変(義和団事件)の際、1900(明治33)年6月に北京に公使館を置く列強に対して宣戦を布告しますが、ロシアは、義和団により建設中の東清鉄道の支線が破壊されたことを口実に満州に大軍を送りました。

*東清鉄道の支線とは、ハルビンから大連・旅順に至る路線です。

そして、事変後も撤兵しないことで、日露の対立が深まり、1902(明治35)年、日本は利害の一致するイギリスとの間に日英同盟を結びました。

しかし、いくら英国のバックアップがあるとはいえ、まともに戦っても勝ち目はないので、ロシアの準備が整わないうちに開戦しようと考えました。

その鍵となるのがシベリア鉄道ですが、この頃はバイカル湖付近の路線(バイカル環状線)は未開通で、リストビヤンカ ~ ムィソーヴァヤ間は定期連絡船が運航していました。(下図)

*リストビヤンカから流れ出しているアンガラ川は、バイカル湖から流れ出す唯一の川で、イルクーツクブラーツクを経てエニセイ川に合流する。

1901(明治34)年から、英国製の砕氷車両渡船「バイカル号」により定期的な運航が行われていたものの、1903~04年の冬は砕氷できないほど寒さが厳しかったため、仕方なく馬そりが使われました。

しかし、馬そりでは輸送能力が低いため、バイカル湖西岸には輸送できない物資が山積しました。

これを打開するために、突貫工事で、バイカル港とタンホイの間に仮線が凍結した湖面に敷かれますが、機関車ではなく、労働者と馬によって車両を牽引するという有様でした。

*機関車の試運転の際、氷の厚さが不足する箇所が点在し軌道が破壊されたため、人と馬に頼ることとなった。

*ムィソーヴァヤからタンホイまでの区間は、日露開戦時までに開業していた。

ロシアは、1899(明治32)年にバイカル湖南岸を迂回するバイカル環状線の工事に着手しましたが、1904(明治37)年2月の日露開戦には間に合わず、同年9月25日に漸く開通しました。

◆ 以上の投稿は、次のwebサイトを参考にしました。

地図と鉄道のブログ バイカル環状鉄道

北山敏和の鉄道いまむかし シベリア鉄道と安奉軽便鉄道

バイカル環状鉄道の工事について、 地図と鉄道のブログ「バイカル環状鉄道」には、次のように記されています。

建設事業は、1899年にムィソーヴァヤ側から始まった。問題の北岸区間では、岩をうがち、33本のトンネルと248個所の橋梁を築く難工事となった。陸上の運搬路がないため、現場で調達できる石材以外の資材は、夏は船、冬はそりに載せて運んだ。1904年2月の日露戦争勃発後は、兵力の安定的な輸送が喫緊の問題となり、完成が急がれた。その年9月、ついに「鉄のベルトを留める金色のバックル」が開通を果たし、翌10月からは定期運行が開始された。

Байкальский музей ~ アザラシのいる博物館 ~