歴史の教科書に載っている『東京開化名勝京橋石造銀座通り両側煉火石商家盛栄図』という錦絵の中央には、乗合馬車が描かれており、「千里軒」という文字が目に飛び込んできます。

この乗合馬車を経営しているのは、浅草広小路の 千里軒 という会社で、この会社を立ち上げたのは、和歌山県出身の由良守応(ゆら もりまさ)とう人物です。

彼は、岩倉使節団に参加しており、『和歌山県ふるさとアーカイブ』というサイトには、次のように記されています。

明治4年(1871)、岩倉具視の欧米使節団に参加、英国で二輪馬車や四輪馬車、オムンボスという二階建ての乗合馬車を見て、馬車に魅せられた日々を送り、日本でも走らせたいと夢を持つ。特に、荘厳と走る女王の馬車を見て、同じものを天皇の御召馬車として購入するように使節団会計係の田中光顕に熱弁を振るって嘆願し、実現させる。

明治6年(1873)、帰国後、御召馬車の手綱をとる皇宮御馬車係となり、英国以来の夢が叶う。ところが、皇后・皇太后を乗せた馬車が転覆し、その責任をとって辞任する。

彼は、馬車の転覆事故の責任を取って皇宮御馬車係を辞めた後、明治7年(1874)に乗合馬車会社「千里軒」を開業しました。そのルートは、浅草から新橋間までですが、銀座の京橋の錦絵に乗合馬車が描かれていることから、次のようなルートだったと想像できます。

*東京駅は1914(大正3)年の開業なので、この当時はまだ存在しません。

千里軒は開業の際、「浅草雷門から新橋汽車ステーションまで1時間。朝6時から午後8時まで、1日6往復」という内容の広告新聞に載せました。

馬車は英国製で、2階建てだったようですが、『東京開化名勝京橋石造銀座通り両側煉火石商家盛栄図』に描かれているものは、どうみても2階建てではありません。

その理由をいろいろ探ったのですが、ネットで『政経かながわ -広告珍談・おもしろい乗り物②-』という頁を見つけました。

どうやら2階建て馬車は浅草で大事故を起こし、わずか1か月で廃車になったようです。

ある日の夕刻、浅草にさしかかって馬がとつぜん暴走。人力車をなぎたおし、乗っていた20代の女性が死亡。けが人もでた。東京府は2階建て、すなわちオムニバスを即刻禁止。「開化の品とはいひ、至極便利にはあれど、あまり大きうて迷惑人も多かり」と新聞が批判。馬は気の荒い、アラビア産とも報じた。

さらに、次のようなコメントも付け加えられていました。

ひとつ困ったことがあった。馬は生き物、生きているからウンコする。銀座も日本橋も、馬糞でいっぱい。風でも吹こうものなら、乾燥したウンコは舞い上がる、店に飛び込んでくる。

しかたなく1階建て(平屋)の馬車での営業をしていたようですが、経営は順調だったようで、川崎から高崎・宇都宮まで路線を伸ばしました。

しかしながら、同業者の増加や鉄道等の発達により、明治 13 年(1880)に廃業しています。

銀座の文明開化の錦絵