◆江戸幕府が制度化した参勤交代の内容は、大まかにいえば次の通りです。

➊ 妻子を人質として江戸に住ませたこと

➋ 1年ごとに領地と江戸を行きさせこと

◆そして、その目的は「大名が幕府に対して謀反を起こさないようにするととともに、大名に莫大な出費を強いることで力を削ごうとした。」と教えていると思いますが、本当にそれでよいのか、私たち教師はしっかりと勉強する必要があると思います。

◆ 今回は、参勤交代の歴史について考えます。

  1. 参勤交代のルーツは、鎌倉時代にさかのぼることができる。
  2. 関ヶ原後、多くの大名が自発的に江戸に参府し、人質を江戸に住まわせるようになった。
  3. 第3第家光の時代に、参勤交代が明文化・制度化された。

◆ 以下、別冊宝島「実録参勤交代」 を参考に参勤交代について箇条書きにしています。

➀ 鎌倉時代、御家人は将軍の御恩に対して、軍役や経済的負担などの奉公が強いられた。

➁ 御家人の軍役の主なものは、京都大番役と鎌倉大番役である。
・初期の鎌倉大番役は特定の御家人にだけ課されたものだったが、やがて関東の御家人に拡大された。
・御家人は所領の大小により、数日~数ヶ月の期間、自前の軍勢を率いて鎌倉に詰めた。

➂ 室町時代(南北朝の和解後)は、関東や九州を除く45か国の守護大名は、京都の将軍のもとで奉公することが義務付けられた。
・守護大名は、特別な理由がない限り領国に戻ることが許されなかった。
・各地の有力な国人の中には、守護大名を出し抜く目的で、自ら領地と京都の行き来を繰り返す者もいた。

➃ 戦国時代になると、領国に定着した守護大名たちは自国の中で家臣に参勤を強いるようになった。
*中国地方の大内氏、北陸の上杉氏、九州の島津氏など

➄ 豊臣政権の時代は、大阪城や伏見城の周りに諸大名の邸宅が造られる。
・各大名はこの邸宅と領国を行き来し、秀吉からは大阪、京都での滞在費が支給された。
・天正17年(1589)の小田原攻め以降、諸大名は妻子を在京させることを義務付けられた。

➅ 家康への忠誠を示そうと考えた大名が、大阪夏の陣の前後に自発的に江戸に出は向き、さらに妻子を人質として江戸に住まわせた。
・関ヶ原以前から、藤堂高虎は弟を、前田利長は母親(まつ)を人質として差し出していた。
・関ヶ原後の慶長7年(1602)、前田利長は母親の見舞いのために江戸を訪れ、2代将軍秀忠に謁見している。
・これ以降、大名たちが自発的に江戸へ参府し、人質を出すことが一般化する。
・幕府は、豊臣秀吉の例に倣って大名たちに対して江戸城下に屋敷を与えた。

➆ 既成事実として定着していた参勤交代は、寛永12年(1635)の武家諸法度(3第将軍家光)で明文化された。

◆ 武家諸法度「寛永令」

【原文】
大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。

【訳文】
大名・小名は、自分の領地と江戸とを交代で住むように定める。毎年4月に江戸まで参勤せよ。ただし従者の数が多すぎ、費用をまかなうのは領民にとって大変な負担である。それ相応の数に減らすようにせよ。

☆上記、寛永12年(1635)の武家諸法度では、外様大名の参勤交代が義務付けられた。

☆寛永19年(1642)の制度改革により、譜代大名にも拡大された。

参勤交代をどう教えるべきか➁「江戸での単身赴任生活」