遣明船が朝貢(進貢)のために持ち込んだもののうち、代表的なものの一つが馬です。

*以下、勉誠出版の『日明関係史研究入門』 アジアのなかの遣明船 を参考に解説します。(p392~p394)

建国当初の明朝は、支配領域を広げるために周辺との戦争を繰り返したため、軍馬を必要としていました。

そのため、明朝は、高麗や朝鮮王朝などの朝貢諸国に対して、朝貢品として馬を求めています。

朝鮮王朝は、李成桂(位:1392~1398)の即位直後、高麗が明に対して約束していた進献馬1万匹のうち、未納分の1000匹を献上したのをはじめとして、永楽帝の時代委には5回にわたって挑発に応じています。

琉球からも多くの馬が進貢されています。

琉球王国の成立前、中山王の察度(さっと)は洪武7年(1374)に弟の泰期らを遣わし、表を奉じて馬と方物を献じています。

日本に対しても、同様に馬を求めており、『日本国王良懐』懐良親王(かねよし)は1371年に使節を派遣した際、馬と方物を献上しています。

勘合貿易を始めた足利義満は、1401年、建文帝に対する方物の中に「馬10匹」を、1403年の方物の中には馬20匹を上げています。これ以降、馬20匹の献上が定数となっています。

日本の馬の産地は、陸奥国(東北地方)でした。室町時代、東北地方の武士たちは、相次いで足利将軍に馬を献上し、服属の意を示しました。

➀南部氏は、1418年に上洛し、将軍・義持に馬100匹、金1000両を献上。

➁安藤氏(十三湊が拠点)は、1423年、将軍・義量に対して、馬20匹、羽50鳥、鵞眼(銭)2万疋(20貫文)、海獺(ラッコ)皮30枚、昆布500把を献上。

➂斯波氏(奥州探題)は、砂金100両、馬3匹を献上。

勘合貿易⑪ 大内氏の立場から見た『寧波の乱』