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長崎の古地図からみた鎖国➂『鎖国後も通商を望んだポルトガル』

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長崎の古地図に関する最後の投稿です。今回は、長崎の処刑場の場所について考えてみましょう。

◎皆さんは、1640年のポルトガル使節団長崎受難事件をご存知ですか。この事件について調べてみると、鎖国後もポルトガルが日本との通商を望んでいたことが実感できます。

◎1639年に鎖国が完成しますが、その翌年、ポルトガルの使節団が長崎へ来航し、メンバーの多くが長崎の西坂で処刑されています。

*西坂は当時の処刑場であり、秀吉のバテレン追放令(1857年)で二十六聖人(うち日本人20名)が処刑されたことで有名です。

*西坂は長崎の西にある坂です。現在の長崎駅の少し北になります。

西坂の処刑場

 *寛永長崎港図

◎以下、ネットで見つけた論文「寛永17年 (1640) ポルトガル使節団長崎受難事件」を参考に、この事件の概要について説明します。

➊1639年(寛永16年)に日本への来航を禁じられたポルトガル人は出島から追放され、同年10月に2隻の船がマカオに帰港した。(鎖国の完成)

➋これを受け、マカオ評議会は、日本との通商が絶えればマカオが荒廃すると考え、通商の再開を求めるために、翌年(1640年)6月22日に74人の使節団を派遣した。

➌使節団を乗せた船は、同年7月6日に長崎港外に到着した。

➍使節団の船は日本の船に曳かれて、出島の前に投錨した。

➎使節団のメンバーは出島へ連れて行かれ、大村藩の兵士の監視の下に置かれた。
*オランダ商館が平戸から出島へ移されたのは、この事件の翌年(1641年)のことである。

➏使節団は、長崎奉行所へ貿易再開の嘆願書を提出した。

➐嘆願書は直ぐに江戸に送られ、その後、幕府の特使2人が長崎へやって来た。

➑幕府の特使は使節団74人全員を呼び寄せた。

➒使節団一行は大いに喜び、着飾って特使の前に現れた。

➓ところが、使節団には死刑が宣告され、ただちに手足を縛られ牢獄に入れられた。

⓫死刑を宣告されたメンバーは、泣いたり訴えたりしたが、翌日、全員は西坂へ連れて行かれた。

⓬ただ、74人うち13名は命を助けられることになり、残りの61の首がはねられた。

⓭その後、一行の金鎖、家財、着物などの財産の全ては、ポルトガル船に積み込まれ、生き残り13名の目の前で火がつけられた。

⓮助命された13名には小型の船3隻が与えられ、全員が無事マカオに帰り着いた。

★この論文は、幕府の記録と平戸のオランダ商館日記をもとに記されています。

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