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生麦事件と薩英戦争➁ 過激な攘夷論者ではない久光

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◆今回は、生麦事件の主役である 島津久光 の行動と考えについて扱いたいのですが、意外なことに久光は攘夷論者ではありませんでした。
*このことをしっかりと頭に置いて、以下のことを読んでください。

島津久光 1817 ~ 1887

駐日イギリス代理公使 ニール

イギリス代理公使 ニール

 

 

 

 

 

 

◆1862年9月30日(旧暦:閏8月7日)、久光一行が京都に入ると、よくぞ異人を斬ったと誉めそやす声が多かったのですが、久光自身は苦々しく思っていました。

・彼は「無礼な行為をしたイギリス人を斬っただけのことであり、攘夷ではない。あくまで正当防衛である。」と考えていました。

・そして、過激な攘夷を諫める次のような内容の意見書を朝廷に提出しています。

➀今、無謀な攘夷を強行すれば敗北する。
➁国内の武器の充実が先決である。

・ところが当時の朝廷は攘夷論一色で、久光の考えは全く理解されませんでした。それどころか、久光は攘夷の英雄のように思われるようになりました。

◆1862年9月に起こった生麦事件の際、イギリス代理公使ニールは、保土ヶ谷に宿泊する薩摩藩一行に報復しようとする居留民を諫めて、報復を思い留めさせましたが、幕府と薩摩の両方に賠償を請求する方が得だと考えたようです。

★ニールの報告を受けて英国政府が決定した要求

➀幕府に対しては、女王陛下への謝罪と賠償金10万ポンド(約240億円)の支払いを要求。
➁薩摩藩に対しては、幕府を通じて、犯人の逮捕及び処刑、遺族と被害者へ2万5000ポンドの支払いを要求。

◆薩摩藩はニールの要求に対しては、一貫して自分たちに非はないと主張し続けたました。
・最初は「薩摩と無関係な浪人の仕業である。」と主張。
・さらに追及されると「犯人は下っ端の足軽「岡野新助」(実在しない人物)の仕業であり逃げてしまった。」と嘘をつき通します。薩摩藩はイギリスの要求を頑なに突っぱねました。

◆薩摩藩が、このような態度をとったのは、イギリスからの犯人引き渡しとその処刑の要求は、幕閣の間に伝えられる間に、いつの間にか「久光の首を差し出せ」という誤った内容になり、その誤った要求が薩摩藩に伝えられたからです。

◆さらに悪いことに「久光の首」という誤った要求は、薩摩藩の攘夷派を激怒・勢いづかせ、鹿児島では大砲が急ピッチで製造され、鹿児島全体がイギリスを迎え撃つ臨戦態勢になってしましました。

*ここに至って、久光も戦争止む無しと考えるようになりました。

◎NHK・BS『幕末大転換!逆境に活路を開け「横浜・生麦事件」/NHK・BS歴史館』

◆引き続き、次の投稿もご覧ください。

生麦事件と薩英戦争③ 死者24名と63名

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