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生麦事件と薩英戦争③ 死者24名と63名

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◆今回はいよいよ ”薩英戦争” について扱います。

◎生麦事件(1862年9月)の翌年、1863年の2月19日、イギリス艦隊が、本国で決定した英国政府の要求を携えて横浜に入港しました。

➀幕府に対しては、女王陛下への謝罪と賠償金10万ポンド(約240億円)の支払いを要求。

➁薩摩藩に対しては、幕府を通じて、犯人の逮捕及び処刑、遺族と被害者へ2万5000ポンドの支払いを要求。

◎イギリス艦隊は幕府が要求をのまなければ、日本に戦争を仕掛けるつもりであり、幕府はこれにびびりまくります。

◎幕府はついにイギリスの要求に屈し、賠償金の支払いに応じました。(1863年6月)

◎一方薩摩は、頑なにイギリスの要求を拒み続けました。

◎国力が充実していないとして過激な攘夷に反対だった久光ですが、「久光の首」という誤った要求が鹿児島に伝わり、藩士たちが激怒すると、久光もついにイギリスとの開戦を覚悟します。

◎薩摩藩はプライド高く、敵に屈するというのは恥だと思う侍の集団です。やってやるという機運がみなぎり、鹿児島湾に次々に砲台が築かれ、85門の大砲が設置されました。

◆1863年8月11日(旧暦6月27日)、ついにイギリス艦隊7隻が鹿児島湾に姿を現しました。

*ユーライアラス(旗艦)、パール、パーシュース、アーガス、レースホース、コケット、ハボック

➀イギリスが賠償を要求しますが、お決まりのパターンです。薩摩藩はこれを拒否しました。

➁8月15日、ついに薩英戦争(2日間)が始まりました。

③イギリスは脅せば薩摩が屈して賠償金を支払うと思っていたので、まさか戦争になるとは思っていませんでした。

④2日間の砲撃戦で薩摩藩の死者は24名だったのに対し、イギリスの死者は63名に及びました。

⑤イギリス艦隊の砲撃が城下に飛び火し、折からの大風が炎を煽り、鹿児島の市街地が焼けてしましました。

⑥8月17日、イギリス艦隊は薩摩から撤退しました。

◎イギリス艦隊が薩摩藩を屈服させることなく、わずか2日間で撤退したことについて、ウィキペディアには次のように記述されています。

横浜に帰ったイギリス艦隊内では、戦闘を中止して撤退したことへの不満が兵士の間で募っていた。
当時の世界最強のイギリス海軍が事実上勝利をあきらめ横浜に敗退した結果となったのは西洋には驚きであり、当時のニューヨーク・タイムズ紙は「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」とし、さらに、「西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう」とも評している。
本国のイギリス議会や国際世論は、戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への艦砲射撃は必要以上の攻撃であったとして、キューパー提督を非難している。

◆戦争から約3か月経った11月11日(旧暦:9月28日)、ようやく戦後処理について、横浜のイギリス領事館において薩英の話し合いが始まります。

◎NHK・BS『幕末大転換!逆境に活路を開け「横浜・生麦事件」/NHK・BS歴史館』

◆最後に次の投稿もご覧ください。

生麦事件と薩英戦争④ 重野厚之丞の巧みな交渉

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