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勘合貿易⑧ 北京にあった『会同館』

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北京に到着した朝貢使節は、どんなところに泊ったのだろうと疑問に思いませんか。

京師(帝都)には、会同館という国内外の諸々の使節を宿泊させる施設がありました。

*勉誠出版「『日明関係史研究入門』 アジアのなかの遣明船」 p293~p302

◇建国当初の1369年、初代皇帝の洪武帝(朱元璋)が南京を京師と決定したので、会同館は南京に置かれた。

◇第3代の永楽帝が北京に遷都すると、会同館も北京に遷された。

◇北京の会同館は北館と南館からなり、➀北館には皇族・女真・オランカイ・韃靼・トゥルファン・サマルカンド・回回・ハミ・チベット・雲南・四川・湖広などの使節が、➁南館には、朝鮮・日本・安南・琉球などの使節が収容された。

◇複数の異民族が同じ館駅に宿泊することから、異文化接触が行われた。また、外国の朝貢使節には、5日に1回外出することが許されていたので、南館と北館を超えた交流も行われた可能性がある。さらに、礼部を介して皇帝が設定する賜宴などにも多数の異民族が同席した

◇朝貢使節は、会同館において京師(帝都)の商人との交易が許可されていた。

*1478年以前の明朝側の告示に「軍人・人民が商品をもって直接に会同館へ行って各部屋を訪問販売することを禁止したにもかかわらず、今また無法者が徒党を組んで会同館に訪販し、なかには偽物を売りつける者までいる」というものがある。

*1498年には、朝貢使節が館内において、5日間のみ中国商人らと交易をしてもよい旨の規定が設けられた。

◆明朝は中華帝国の度量を持って、遣明使節を朝貢使節として迎え入れましたが、これは、天朝の徳を慕ってやってきた遠人の心を慰めてやらなければならないという建前からです。(p206)

よって、恩典として許される公貿易のレートは、民間貿易のレートよりはるかに高いものでした。

また、寧波に上陸して以降、帰国するまでの滞在費の全てを明側が負担したのもその表れです。

しかしながら、明側の財政が悪化することにより、規制がかけられることになります。

それが、1454年に発せられた、有名な『景泰約条』(p13)です。

➀ 10年に1貢
➁ 船は3隻以内
➂ 乗員は100人以内

勘合貿易⑨ 貿易の制限『景泰約条』1454年

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